バスでの出来事
2019年04月26日「日本人が韓国のバスの中でペチャクチャ喋ってないで、さっさと日本に帰ってくれよ、韓国人の気も知らないくせに」
「アジョシ、私は在日の3世なんですが、それでも同じこと仰いますか?」
「おお、そうだったのか、それは知らなかった、てっきり日本人かと思った」
「アジョシ、もし日本で、韓国人が、バスの中で日本語で会話してたら、日本人になりますか?」
「・・・・」
「アジョシ、言語がどうかでもないし、国籍の問題でもないでしょう」
「・・・・・・・・でも日本人は、*+?^-\&%$,,」 (←聞き取れませんでした)
まだまだ、韓国語が下手くそだったので、片言での会話になりましたが、
この極めてショッキングな出来事がきっかけとなり、言語と国籍の壁をなくすにはどうすればいいのかと考えるようになりました。
私には、ここ数年の間に師匠と呼べる人ができました。
圧倒的な知識の差に然り、理路整然さに然り、どれをとっても太刀打ちできません。
でも、その師匠が、最近幾度となくtwitterアカウントを凍結されるようになります。
言論というものは怖いものです。
真実性が担保されないそれは、排除されなければならないし、だからこそ排除しようと必至に必死になって活動していた人の言論の方がなぜか不条理に弾圧されています。
どんな言論であれ、言語であれ、担保されなければいけないし、
どんな民族であれ、国籍であれ、担保されなければなりません。
言論でもなく、言語でもなく、民族でもなく、国籍でもなく、
どんな行為が行われたのか?
誰が誰に対して、どんな行為をしたのか?
問われるべきは、誰がでも誰にでもなく、「行為」に対してではないでしょうか。
仮に、twitter社が「恣意的」な判断で、とあるアカウントを凍結するという「行為」に出たとします。
そこにある断罪すべき対象は、恣意的な判断ではなく、行為に対してではないでしょうか。
恣意的なものを行為に移す怖さを思い知らされています。
日本語、韓国語、日本人、韓国人を対象として、十把一絡げに言わないでいただきたいです。
ソウルメイト韓国語学校の原点でもあります。